「東村山って何もないよね」という言葉
何もないなら、自分たちでおもしろくすればいいじゃん。
「東村山って何もないよね」
と言う人に会うと、最近は「あー、きましたね」と思う。うちの母たちなど、お天気の話をするように「ほんと、何もないもんねぇ」という。ユニクロができただけで、ちょっとまちのランクが上がったかのようだ。
反論する気はない。14年ほど前、初めて参加したまちのワークショップで、私も同じことを言っていたからだ。今から思えば、当時のまちのことは、自分とはずいぶん遠くのことだった。
ただ、私は昨日もめっちゃおもしろい地元の人に会ったし、来週も変な企画の打合せが入っている。あちこちでうごめいている気配や熱量を感じて、飽きることがない。同じまちに住んでいても、案外見えている景色は違うものだ。
まちに関わりはじめた当時の私は、まちづくりや市民活動というものが苦手だった。
行政に向かって「これをやれ」「あれはやめろ」と言う場の、何にマウント取ってるんだか分からない力の見せ合いがとにかくしょうもない。クリエイティブじゃない、おもしろくない。重たい。関わりたくない。

そんなとき、SNSでつながった地元の同世代の人たちがフラッシュモブを始めた。「おもしろいものがないなら、自分たちでつくればいいじゃん」という勢いで。今思えばずいぶんクセの強い人たちの、おバカで正直な地元愛が、カオスで愛おしかった。「東村山に、こんな人たちがいたんだ」って、新鮮な驚きだった。

そのメンバーの中に、自分で商工会に企画を持っていったフリーの編集者がいて、なりゆきで「るるぶ特別編集 東村山」をデザインすることになった。
いざ、ひらいてみたら、中学からずっと住んでいるまちなのに、知らないことだらけ。
こんな場所があったのか、こんな人がいたのか。
活動するごとに知り合いが増え、毎日次々と新しいことが始まる楽しさに、魔法がかかったように夢中になった。
とんとん拍子でまちの仕事が増えた。地元の知り合いはなく、自宅で都心のプロダクションの請けデザインをしていた生活がひっくり返った。その勢いで「ハチコク社」をつくり、東京の多摩エリア全体の観光PRを担当することになったのは東京オリンピックの前だった。
5年の間に、東京多摩の30の自治体を走りまわった。
何冊も作っていると、顔が見えない「観光」の視点がだんだん虚しくなってくる。背景を知るほど、強く惹かれるのは有名な場所じゃなくなる。
東日本大震災やコロナ禍のように、世の価値観を大きく揺るがす出来事があるたびに、人は遠くを見るのをやめて、自分の足元を見るようになる。
どこで暮らしても、些細な日常のやり取りの中に輝く瞬間があって、そのときの想いや風景が、誰かの居心地の良さやエネルギーになっている。
そういうちっちゃい欠片を、いろんな人と分かち合いたいと思って、様々なプロジェクトや、百才という居場所をつくってきた。10数年経って、まちに関わることがほんの少しでも身近になっていたら頑張った甲斐もあるというものだ。
気づいたら自分たちもアラフィフを迎え、東村山にも次の世代の顔が少しずつ見えてきた。あの頃の私たちより自由で、軽やかで、気負わずに周囲を巻き込んでいく人たち。
週刊むらの芽は、そういう人たちの熱量や偏愛を集めるところです。
お得な情報はたぶんあまり出てきません。
でも、誰かの「好き」がたくさん詰まっていたらいいなと思っています。
まちに出ても、家にいても、ひとりでも、誰といても。
おもしろいことは、結構その辺に転がっている。
「この人に会いに行ってみようかな」「自分も何かやってみようかな」と思う人が増えたら、うれしい。
もし、まだ、おもしろいものが見つかってないなら、これから一緒につくりましょう。
